書くことはなんだろうか。
僕は音楽家が音楽を画家が絵を描くように、文章を書きたいと思った。
しかし文章を書くことは、そうした芸術家が芸術をすることとは少し素質が違うんじゃないか、と感じた。
平たくいって、文章を書くことは大変に自由なのだ。
そして文章を書くことは大変に凡庸な取り組みなのだ。
文章を書くことは、それなりの教育を受けたものなら大体誰でもできる。
難しい言葉を使う必要はない。
文章はある程度は誰にでも開かれた領域である。
しかしそれでも、というか、だからこそ、というべきか、文章を書くことは大変困難な時がある。
こうした文章の無抵抗な自由にまとわりつく不自由さに対抗するように、僕らは規定された、文章の型を発見しては、それを用いる。
そうして書かれた文章は世の中にごまんとあるし、それらは何か文章として正常な面をしているように見受けられる。
だけれども、文章が最も死んでしまうのはそうした規定された状態にあるのではないか、と思う。
例えいかに文章を書くことが自由で、それゆえに困惑を極めるとしても、この自由さの中で僕ら書き手は泳ぎ続けねばならないのだろうと思う。
しかしそれがどんな意味を持つのか、甚だ特定できずにいる。
思うに、文章を書くことは、直感的に表現するあらゆる芸術とは違って、極めて迂遠な表現方法に思える。
感情の赴くままに、身体の動くままに、もちろん書くことはできるし、優れた詩作品にはまるで天上から下ろされたかのような崇高さを纏っているものもある。
だからそうした作品を生み出せる人たちは真に芸術家と言えるのだろう。
しかし多くの文章は、極めて凡庸である。
切実さを感じるような文に巡り合うことは極めて稀である。
それも自分の言葉、自分の血肉で書かれた言葉はとても少ない。
それは書くということを普段皆がやりながら、学校でも教わりながら、そうした手法を各々が体得していくけれども、同時にあの感性だったり、感覚に任せて文章を綴るという行為が逆にそうした学習のために難しくなっているのではないか、と感じるのである。
果たしてそのような切実な文章を書く作家は現代でどれだけいるのだろうか?
極めて綿密に、計画的に、その上ポエティックな作品をかく現代作家はそれなりにいる。
それらの作品はなるほど極めて完成度が高いものだと思うし、衆目に照らしてみても、十分評価に値するものは多くあろうだろう。
けれども何か、素の状態の狂気だったり、切実な文学表現というのはなかなか現代では少ない。
これがまだ音楽や絵には感じるものがあるが、文学になると特に少なくなっているように思う。
そこには文章を書くという行為の、理性的な、事後的な、何かが隠れていると思うし、その手続きの煩雑さが、文学を極めて凡庸にしているようにも思うのだが、果たしてそれは、時代性をいかに反映しているものであろうか?
文学がかくまで凡庸になったことには、現代のどんな病理が潜んでいるのだろうか?
私は創作としての文章、を言っている
記号の操作ではなく、単に表現されたものとしての文でもなく
文章が創作されていく、とはどのような過程であるのか、と