働くこと

俺は前から疑問に思っているのだが、ほんまになんでみんなあんなに働いているのかわからない。

朝から晩まで週5日、さして高くもない給料をもらって働いている。

普通に考えて馬鹿馬鹿しい。

しかしその馬鹿馬鹿しいことをほとんどの人がやっている。

だから僕は非常に困惑するわけだが、僕もそのバカの一員である。週5日朝から晩まで働いている。

しかし自分でやっていても思うのだが、本当に馬鹿馬鹿しいのだ。だがやっているうちにはそんなことも考えない。ただ黙々と作業に取り掛かる。自分がやっている仕事の価値なんて考えやしない。

 

働くこと、に関して皆それなりのことをいう。金のため、生活のため、成長のため。

しかし僕は、皆何かしらの重りを背負って、つまり、何かわざわざ痛みを抱えにいくために仕事に出かけるのではないか、と思うのである。

つまり、仕事に出かける時のあの負い目のような感情そのものが仕事に行く理由なのではないか、と思うのである。

 

そのように思えるので、僕は昨今言われるような好きを仕事にしよう! などという風潮にはどうも乗り切れないのである。

どう考えても、現代社会の仕事はそんなふうには回っていないからである。

いや一部の人々の中ではそれで回っているのかもしれない。しかし、どう考えても、仕事とは怠く、辛く、苦しいものであろう。

しかし、その苦しさが、僕らに光を与えてくれる、というのもまた事実である。

労働の後のむビールの旨さや、湯船の気持ちよさなど。

あれは苦労を味わってからじゃないとどうもいけない。

 

その点、僕はこうした苦労をすることをそのまま労働の目的としても差し支えなかろうと思うし、それが自然じゃないか、という気がする。

 

さぁそれでは、これから未来に起こることについて話すと、おそらくAIによって多くの仕事が代替されるというのは識者のいう通りになるだろう。

その時に、人間の仕事は何か、ということなのだが、今の論理でいくと、たとえ効率的に人間がいらなくなったとしても、人間は何かしらの仕事を自ら生み出すであろう。

人は暇に耐えられないし、常にそのような重りを必要としているからである。

それは人間の不幸なのだが、同時に人間の罪性を表すだろう。

罪性、と言ったが、キリスト教圏では、労働は罰として機能する。

他方、日本では、神様も働く、というのは古事記にもよくいうところである。

 

もし、ベーシックインカム、AIによる仕事の代替が現実に起こったとして、さて僕らはどのような働き方を見つけ、その中で文化を形成していくだろうか?

苦しみを背負うこと、だけではない労働というのはありうるか?
またそれが単に好き、というのと違うものとなる可能性はあるか?

それはどのような働き方だろうか?